コミュ障なんて言葉消えてほしいよ。その意味と使っていけない理由

   

こんにちは!最近色々な言葉が差別語だと気になっているノリです。

私は現在大学3年生で、心理学を学んでいます。

心理学を学んでわかったことのひとつが、世の中には様々な不適切な言葉があるということです。

不適切な言葉を用いて、相手が不快になった場合はまだ対処のしようがあります。言った人が嫌われるだけですし、不快を宣言することができるからです。

しかし、問題なのは不適切な言葉で関係のない第三者を傷つけてしまうう可能性があることです。

今回は、特に自虐的に使ってしまいがちな「コミュ障」という言葉や、その他の言葉を取り上げ、なぜこのような言葉が消えてほしいかを説明していきます。

 

コミュ障とコミュニケーション障害の意味の違い

私がこの言葉の不適切さに気づいたのは大学の授業でレポートを書いたときです。

いや、それ以前に授業で話には聞いていました。

コミュ障は言うまでもなくコミュニケーション障害の俗称です。

しかし、その意味は大きく異なります。

 

コミュ障の意味

コミュ障の意味って言われて答えられますか?

「コミュニケーションに障害があること」と何の答えにもなっていないことを言う人がいるかもしれません。

具体的に何かを聞くと、「他人と上手に話せない、その自信がない」場合にこの言葉を用いるようです。

多くは自虐的に自分に対して用いられ、他人に対しては別の差別用語が使われています。

このように、曖昧な使われ方をしているコミュ障という言葉ですが、コミュニケーション障害にはしっかりとした医学的な定義があります。

 

コミュニケーション障害の意味

コミュニケーション障害にはアメリカ精神医学会による診断基準である『DSM―V』(ディーエスエムファイブ)で定義されています。

 

この定義によると、コミュニケーション症/コミュニケーション障害群としてまとめられています。これを、この記事ではコミュニケーション障害と呼ぶことにします。

このコミュニケーション障害には下位カテゴリがあって、言語症、語音症、小児期発症流暢症(吃音)、社会的(語用論的)コミュニケーション症、特定不能のコミュニケーション症群があります。

詳しい説明はここでは省略するので気になる方は以下のページをご覧ください。

外部リンク:コミュニケーション障害とは?俗称と医学的定義の違いは?症状の種類

なぜ不適切か

なぜコミュ障が不適切かというと、軽い意味で用いているからです。

実際に医者にそう診断されたならともかく、自虐的に用いる人が多いです。

これは私の大学の中だけであってほしいのですが、みなさんもこのような言葉を耳にして不快になった経験があれば、ぜひお知らせください。

実際の意味と異なるのに勝手に使っていいわけがありません。

本当にコミュニケーション障害で悩んでいる人や苦しんでいる人がかわいそうです。

障害なんて使われ方に差異がある表現をしなくとも、「人と話すのが苦手なんだよね」と言えば済む話です。

さらに、略して使うなんて考えられません。吐き気がしそうです。

ネットの中だけでも酷いのに対面でも用いている場合なんて倒れそうです。

だから、私はコミュ障という言葉が消えてほしいのです。

まとめ

このような言葉はまだたくさんあります。

きちんと意味を知っていないと、関係のない人を傷つけることになります。

他人だけでなく、自分に対しても用いないほうがいいかと思います。

最後にレポートを載せておきますが、記事はここでおわりにします。

 

日々の生活によりよいを

ノリ

 

レポート:障害とは何か。障害と自分

そのときのレポートです。ただの大学生のレポートなので引用、無断転載はご遠慮ください。

 

私は「障害」という言葉が嫌いだ。理由は数多くあり,その中で最も大きなものは「障害」の定義が不明瞭だからである。日本は,英語のdisorderを発達障害として訳したが,果たしてこの言葉の選択は正しかったのか再確認する必要がある。なぜなら,障害という言葉は既に存在していたものと思うからである。言い換えると,発達障害の意味での障害より前にfailureの意味で障害という言葉はあったのではないかと考えるからである。はっきり言って根拠はない。しかし,障害という言葉が表す意味は決して明るいものではなく,暗く,重苦しいものだということは世間一般,多くの日本人の認知ではないだろうか。改めて問う。「障害」とは何か。

ここで,私は障害そのものではなく「障害」の語の使われ方について論じることを明記しておく。障害そのものについては簡単に結論が出るような話ではないためである。語の使われ方を論じた後,自身の体験について振り返っていく。

私たち日本人が障害というとき,システムの障害といえばfailureの意味になり,障害物競走といえばobstacleの意味となる。では,発達障害というときの障害は何を意味しているのだろう。Disable の意味で用いているだろうか。この言葉は,不自由を表す。何が不自由なのかというと,障害のある人当人にとって快適に生活するということが不自由ということだ。語義的には,身体的な障害を表すが,精神的なものも含めても大きな違いはないだろう。重要なのは,「当人にとって」の部分だと私は思っている。基本的には当人が障害だと思えばそうであり,そうでなければそうでないと思うのだ。しかし,それだと言葉の定義が「幸せ」のように個人によって大きく異なるものになってしまい,言葉が宙に浮いてしまう。そのため,授業冒頭で習ったように,医学的,生理学的に知的障害や学習障害などに定義を定め,分類されていったのだ。

それにも関わらず,私たちは日常生活で障害という言葉の意味をよくわからず用いているように思う。私は小学生のとき,よく「シンショー」という言葉を耳にした。「シンショー」とは,悪口のひとつで,「バカ」「シネ」と同様に用いられた罵倒の言葉である。その意味は「不可解な」「頭のおかしい」などに近い。恐ろしいのはその語源で,「身体障害者」を縮めて「身障」になっているのだ。誰が言い始めたのかは知らない。しかし,その言葉があったことは確かだ。さらに,中学生になるとその言葉は次第に耳にしなくなり,代わりにあらわれたのが「チショー」であった。残念ながら意味はおわかりだろう。そう,「知的障碍者」を縮めて「知障」なのだ。さらに,勉強のできない人,自分の理解が及ばない人のことを「ノウシ」と呼んでいたりもするのだが,ここまでくるとさすがに子供の言葉遊びだからと笑っていることはできなくなる。当然「身体障害者」と「知的障碍者」は同じものではない。しかし,親や教師に言葉の意味を教えられなかった生徒は,今でもこのように本来の意味とは違う意味で罵倒の言葉として用いているだろう。「アスペ」などがその例だ。私は成人式で「お前ってアスペみたいなところあるよな」という話を聞いたとき,愕然とした。同時に,「アスペ」が「アスペルガー症候群」の略だと瞬時にわかり,絶望した。語源をしっかり理解していれば,言葉の不適切さがわかるはずだ。もう既に誰かが書いているとは思うが,「コミュショー」を使っているのは私くらいの大学生だ。本当に,いい加減にしてほしいと思う。

ところで,去年に私を含む世間を震撼させた相模原障害者施設殺傷事件の被疑者は一体どんな気持ちで殺傷を行ったのだろう。そして,「障害」のあらわす意味は障害物競走の「障害」であったのだろうか。つまり,社会の邪魔,妨害を行う者だと。

医師の診断する病はただの名であって,人がつけた言葉に過ぎない。病名を宣告された人はその病人として振舞うことを余儀なくされ,その病に抗って生きていこうとするものである。しかし,実際病気はいくらでも細分化することが可能であり,例外のない症状もない。今ある知識を用いただけで,病気と断定してしまう医者も少なからずいる。

私は何を隠そう,小学2年生のとき,ADHDを教師に疑われ,精神科の受診を勧められたことがある。もちろん勧められたのは親であったが,親が怒ったり,泣いたりしているのを見て,私はその教師が許せなくなった。今思えば,「シンショー」と同じレベルのレッテル貼りだと思う。しかし,私はどこかおかしい。病気らしいといわれると酷く傷ついたのを今でも覚えている(ある種の心的外傷ともいえる)。

最近はあまり叫ばれなくなったが,「障害者」を「障がい者」に変えたところで一体何が変わるというのだろう。その言葉の意味がわからずにどうして用いることができるだろう。使い方が間違っているのに,どうして表記が先に問題になるのだろう。

 私は「障害」という言葉は,障害者の身にあるのではなく,社会の側にあるものだと常々思っている。障害者にとっての障害とは,日常生活での他の人が当たり前にできることができない困難さである。冒頭で述べたように私が障害という言葉が嫌いな理由はこの意味が理解できない人の誤解によるものである。障害者と健常者の境界はいたるところで議論が複雑化しているが,将来的にはこれらの境界がなくなって,誰もが安心して快適に生きられるような世の中になってほしいと望む。そのために,私はできる限りのことをしようと思う。

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