中庸

      2018/06/12

こんにちは!ノリです。

「日々の生活によりよい」をテーマに様々な切り口から情報をお届けするこのブログ。

さて、「信念」カテゴリーにようこそ!

ハジメマシテノカタワハジメマシテ(実況風)

「信念」記事は、「ノリトラス」の全ての記事の根底を流れる私の考え(概念)を見えるようにしたものです。

「日々の生活によりよい」という極めて曖昧なテーマを掲げるブログもそうないと思いますが、このカテゴリーの記事を読めば大体やろうとしていることがわかるかもしれません。

今回は偏りがないということ、「中庸」についてお話していきます。

 

中庸(ちゅうよう)とは

中庸とは、儒教という宗教の中心概念の一つです。

『論語』で有名な「過ぎたるは猶及ばざるが如し(すぎたるはなおおよばざるがごとし)」

は、「多すぎるのは少なすぎるのと同じだ」という意味で、中庸と似ています。

また、アリストテレスというギリシャの哲学者が主張する徳の一つ「メソテース」も訳語として同じ言葉が当てられています。

私は宗教はあまり好きではないので専門用語に頼りたくはないのですが、中庸の文字が指す意味と私が言いたいことが一致していたのでこの言葉を用いることにしました。

それではこの言葉の意味を詳しく見ていきます。

 

中庸の「中」

「中」とは、中途半端やきっぱり真ん中という意味の「中」ではありません。

どちらかというと中立の意味に近いです。

しかし、ただ単に中立ということではありません。

中立の立場をとるためには、極端を知っていなければなりません。

例えば、ご飯は食べないと栄養不足で命に関わりますが、食べ過ぎても糖尿病や高血圧など、身体に良くありません。

わかっているとは思いますが、だからといって食べないと命に関わる量と食べ過ぎて命に関わる量のちょうど中間が良いというわけではありません。

命に関わる水の量は少なくて0mLを数日とされています。多いと一気に6L飲むと体内の塩分が薄まり命に関わります。

また、最低限生きていける量とおなかいっぱい満足できる量のちょうど中間をとったとしても意味はありません。

これらの例からわかるように、大切なのは中間をとるということではなく、極端を知り、そのどちらにもならないように努めるということです。

 

中庸の「庸」

中庸の「庸」は「凡庸」の「庸」です。他に「利用する」、「ねぎらう」などといった意味がありますが、おそらく「常に」、「普通の」といった意味でしょう。

この文字が表すことは、中庸は特別な概念ではなくて、ただ常に中立が良いということや、どちらかに偏らないことが良いということです。

というよりも、そのどちらかがあること事態に疑問を持つことが大切です。

次に偏らないとはどういうことかお話していきます。

 

世界中で見られる中庸

さきほども儒教の「中庸」とアリストテレスの「メソテース」が似ていると言いましたが、それだけではありません。

世界中でこの考えは見られるのです。

例えば、ラテン語では「aurea mediocritas(アウレア メディクリタース)」と言います。これは、ホラティウスという人の詩の中で出てきます。

ギリシャ語では、「meden agan(メーデン アーガン)」と言い、これはデルフォイのアポロン神殿に書かれています。

仏教でも各宗派で意味合いは違いますが、「中道」という似たような概念があります。

これでもまだ少ないかもしれませんが、私が知らないだけで調べればもっと出てくると思います。このように、中庸の考え方は様々な国や地域にあると言ってもよさそうです。

 

中庸とは偏らないこと

両極端を知って、中立をとるといいましたが、それは中庸の第一ステップでしかありません。

偏らないこととは、そもそも対立構造が生まれていることに疑問を持つのです。

右か左か、善か悪か、男性か女性かなど、いつの時代も人間はあらゆる物事を二つに分けて考えることを好みます(これを二元論といいます)。

たとえば戦争の話をしましょう。

戦争をするのは端的に言って、自分が正しくて相手が悪いからです。

なにか呪術にでもかけられていない限り、相手に謝りながら攻撃する人はほとんどいないでしょう。

相手も自分は正しくて、相手は悪いと思っています。だから争いが起きるのです。

あるいは、恋人や友人が服を選んでいると想像してみてください。

「ねぇこの服とこの服どっちが良い?」って聞かれて「どっちでもいいよ」と答えますか?それではもう同じ質問はされないでしょうが、仲良くはできないかもしれません。どちらか選ぶということももちろん大切です。

しかし、偏らないとは、中途半端、どっちつかずという悪いことではないと私は思っています。

そもそもなぜ全ての物事を白と黒で判断しようとするのでしょうか。別にグレーが良いと言っているのではありません。

みんなが口にする白とはなんのことなのかはっきりしないといけないことを指摘したいのす。

私は白黒の二元論で語ることを徹底的に非難しているわけではありません。

そんなことをしたらそれこそ二元論を悪、多元論を善とみなす白黒ですからね。

多元論を絶対視することこそが二元論になるという罠です。なんだかややこしいですね。

しかし私の最も言いたいことはこれではありません。

大事なのは次です。

 

自分にとって偏りがない

この自分というものもなかなか厄介なのですが、とりあえず自分というものがあるということにしておいてください。

この自分にとって偏りがないとは、言葉通りの意味で、白か黒かを外から「だけ」で決めるのではなく、自分の中から「も」決めるということです。

それが中庸の「中」の私なりの解釈です。

それなら人それぞれ尺度が違うのでさっき言ったみたいに争いが起こるじゃないかと思う方もしるかもしれませんがそれは違います。

人は自分の芯に従うということがなかなかできない生き物です。

どうしても欲望に囚われてしまったり、絶望に打ちひしがれたりします。

それは、求めなさすぎであり、求めすぎでもあります。

この場合の芯とは「ありたい自分」です。

ありたい自分に従えば戦争は起きないとは言いませんが、少なくとも増えはしないと思っています。

だって戦争が自然なことなら人間はとっくに滅びているでしょうから。

戦争が起きることは不自然ではありませんが、戦争は自然ではありません。

なんだか言葉遊びの名言みたいになってしまいましたけど、そういうことです。

 

みんなにとって偏りがない

中庸といっても、「オレは中庸だ!!」とか言いながら正義を振りかざして来たらいやですよね。

先ほどの「多元論を絶対視する人は二元論」と同じです。

中庸というのは、実はひとりだけで決めるものでもありません。

できるだけ多くの人が納得できる答えを探す必要があります。

だから、中庸という位置にどっぷり腰を据えてとどまっていることはできないのです。

中庸は、常に動いています。

時代や地域によっては正しいとされていたことも、他の時代や地域では正しくないなんてことも数えきれないほどあります。

大事な考えではあるのですが、中庸に偏っては元も子もないですから、気を付けたいところです。

 

まとめ

偏らないことが大事だというのは難しくない考えですが、実際それを意識することは決して簡単ではありません。

日常の中には偏見や差別も少なからずあります。

自分の偏った見方をぜひほぐし、柔軟に生きようと私は思っています。

 

日々の生活によりよいを

ノリ

 

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