結局「自己責任論」って何?わかりやすく解説!

   

こんにちは!ノリ(@halo_transcend)です。

今回お話するのは最近よく聞く「~が不利益を被ったのは自己責任だ」「自己責任で対処しなければいけない」などの主張についてです。

とりあえずまとめて「自己責任論」とします。

この記事でその「自己責任論」について話そうと思ったきっかけは、2つあります。

1つは、会社でよくみられる「自責」の考え方と、他人を非難するときに使う「自己責任論」との違いを明確にしたかったからです。

もう1つは、「自己責任論」を非難するだけではなく、その中身を明らかにする必要があると考えたからです。

非難するだけなら誰でもできます。これが今回の記事のポイントであり、結論でもあります。

非難するだけなら誰でもできてしまうんです。

だからこそ、安易な道にとどまらず、「自己責任論」の仕組みとその有用性を知る必要があります。

それではさっそく一緒に考えていきましょう!

 

自己責任論とは

様々な意味

まずは、自己責任論を定義しておきましょう。

先日の紛争地帯で取材を行うジャーナリストにまつわる議論でも、この定義が曖昧で混乱したままでした。

  1. 「自己責任」とジャーナリスト本人が言う
  2. 「自己責任」と職業全般(や理由)に対して言う
  3. 「自己責任」とあらゆる事柄に対して言う
  4. 「自己責任」と個人の人柄に対して言う
  5. 「自己責任」と個人の能力に対して言う

ぱっと思いつくだけでもこれだけのニュアンスの違いがあります。

これらを混同してしまうと話がこじれ、わけがわからなくなってしまいます。

 

定義追加

先ほど5つの定義を挙げてみましたが、これだとまだ曖昧です。

なぜなら、定義1と定義2~5の意味が大きく違うからです。

定義1はそれを「誰が言っているか」に焦点が当たっているのに対し、定義2~5はそれを「何に対して言っているのか」としてみています。

よって、定義2~5も当事者である自分が言っているのか、そうでないかで分け、定義1を使わない方がわかりやすいかと思いました。

改めてまとめると、

2.「自己責任」と職業全般(や理由)に対して本人が言う

2′.「自己責任」と職業全般(や理由)に対して他人が言う

3.「自己責任」とあらゆる事柄に対して本人が言う

3′.「自己責任」とあらゆる事柄に対して他人が言う

4.「自己責任」と個人の人柄に対して本人が言う

4′.「自己責任」と個人の人柄に対して他人が言う

5.「自己責任」と個人の能力に対して本人が言う

5′.「自己責任」と個人の能力に対して他人が言う

ということになります。

早くも意味不明になってきてしまいました。

わかりやすく定義をするはずが、逆にわかりにくくなったようにも見えます。

しかし、この「本人が言っているか」と「他人が口をはさんでいる」のかは大きく違いますし、この記事での核心に触れることなのです。

 

「自責」との違い

定義についての話はここでおしまいではありません。会社でよく言われる「自責」の考え方はどうでしょうか。

この記事では、自責と自己責任論を分けて考えようと思います。

自責は、「なんでも他人や環境のせいにするんじゃなくて、自分が工夫できることをしようよ」という話です。

ということは、これを話すのは本人です。人に自責を押し付けるのはとても良いこととは思えませんし。

さきほどの定義でいくと、

4「自己責任」と個人の人柄に対して本人が言う

と、5「自己責任」と個人の能力に対して本人が言うがそれにあたります。

これらを特に、「自責」として取り上げたいと思います。

 

「自己責任論」の定義まとめ

となると残るのは4と5以外の全ての定義ですが、話の流れを考えると、自分に対して自己責任論を話しているのはほとんど見ませんので、自責との違いをはっきりさせるために、それらを除外します。

その結果残った「自己責任論」の定義は

2′.「自己責任」と職業全般(や理由)に対して他人が言う

3′.「自己責任」とあらゆる事柄に対して他人が言う

4′.「自己責任」と個人の人柄に対して他人が言う

5′.「自己責任」と個人の能力に対して他人が言う

となりました。

ここまでわかりにくいと感じたかもしれませんが、これだけわかりにくい定義を使って話し合っているのですから議論はもっとわかりにくくなって当然です。

そう思うと少しは意味がはっきりしたのかもしれませんね!

さて、これからやっと本題に入っていきます。

 

何がわるい?

「被害者が悪い」という自己責任

先ほどから例に出していたジャーナリストの件は本人が会見で「自業自得」と言ったため一応の終息を見ました。

しかし、犯罪被害や失敗についても自己責任という言葉で容赦なく傷つける例は今でも後を絶ちません。

「いじめ(傷害罪、脅迫罪等)」はいじめられる方が悪いという論調は、どうして生まれてしまうのでしょうか。

それは、「無差別殺人」は殺される方が悪いと言っているのと同じです。

どうして被害者が悪いということになってしまうのでしょう?

いじめの場合は、「転校すればいい」「転校してもいじめられるなら本人のせい」「対策すべき」

などが挙げられますし、同様の話が「過労死」や「痴漢」でも見られます。

もちろん、被害者はよほどの事情がない限り悪くありませんし、悪かったとしても加害者ほど悪くないはずです。

自衛の場合ですら、罪が軽くなる程度であり、完全に正しくなるわけではありません。罪をマイナス、正しいことをプラスとしたら、正当防衛はマイナスが良くて0になるだけであって、プラスになることはないはずです。

「被害者を悪いと思うことは正しいことか?」という質問には「正しくない」というのが私の結論ですが、「被害者を悪いと思うことはどういう仕組みか?」という質問にはまだ答えていません。

 

なぜ被害者が悪くなるのか?

本人が自分で「自業自得」と言った場合を除いて、たいていは他人が「自己責任」と言い出します。

他人の言う自己責任には当然その他人が含まれていません。ということは、その他人から見れば「他者責任」ということになります。

「自分は関係なくて、お前のせいだろ」というのが本音です。

これは自己責任の押し付けであり、自己責任の皮を被った他者責任です。

確かに、不幸な事故や災難などで「なんで自分が」と思うことはあると思います。

学校で先生に叱られたとき、親から兄や姉である自分が叱られた場合などは「なんで自分だけ」と思うはずです。

例えば、あなたが信号無視で自分だけ警察につかまるということもありますよね。

この場合、信号無視をしている他の人の反応は。「警察のいるところで信号無視するお前が悪い」でしょう。

ちょっと待ってください。悪いのは信号無視です。どうして自分だけが不公平に裁かれないといけないのでしょう。

信号無視は自分でやめればいいだけの話なのでまだいいですが、交通事故はどうでしょう。

「ヘルメットを被ってないお前が悪い」ならまだわかりますが、「家から出たお前が悪い」というのは暴論でしょう。飛躍すれば「生きているから死ぬんだ」などという全く無意味な論になってしまいます。

そんなことを言う人がいるとすれば、それは「他人に対して自己責任論を振りまわす」ことをされた人がまさしくそのような人になっているという実態が浮かび上がってきます。ちょっと無茶苦茶だと自分でも思いますが、なんとなく理解できるかとは思います。

でも、そうすると新たな疑問も出てきます。すなわち、「卵が先かにわとりが先か」の話です。自己責任論の起源はどこにあるのでしょうか。

ここで少し視点を変えて、今度は別の観点から見てみることにします。

 

日本の風土

日本の思想家であった和辻哲郎はその著書『風土 人間学的考察』において、地理的気候によって、その地域に住む人の特徴があると主張しました。

日本は季節があり、モンスーン(季節風)的と特徴付けられましたが、モンスーン的の中でも日本は特殊で、台風という季節的でありがら突発的でもある災害によって特徴を捉えられました。

その特徴は、日本の人間の受容性(物事を受け入れること)は「調子の早い移り変わりがある」ということであり、「活発」であり「敏感」、またそれ故に「疲れやすく持久性をもたない」という性質があるということでした。

これはまさしく、バッシングや他者非難、度重なる炎上などによって現在でも表れていることが確認できます。

『風土』にでは出てきませんが、台風以外にも噴火、地震、豪雨など、人の手ではとても太刀打ちできないような災害が多く続いているのも要因としてあると思います。

つまり、「自分ではどうにでもできない」という行き場を失った感情が、「お前ならどうとでもできた」という責任転嫁に変わるのではないでしょうか。

ですから、自分については「自己責任論」の外に追いやり、他人を「自己責任論」の枠にはめることで、自身は安全な場所から他人を説得することができるのです。

安全な場所というとまだまだ要因はあります。

これからは少し「被害者が悪い」という観点から離れ、「他人や何かを攻撃、非難する」という方向に絞って考えてみます。

 

インターネットで他人を攻撃するということ

インターネットの問題

自己責任論を、他人を非難するための弾丸として打ち出すならば、インターネットとスマホは弾丸を発射する銃ということになります。

弾丸についての話をずっとしていても疲れてしまうので、銃についてもお話しましょう。

現在、私たちはインターネットによって様々な恩恵を受けていますが、その問題点はたびたび指摘されてもいます。

今回の話で関係があるのは、「匿名性」と「集団性」です。

 

匿名性

人は、その責任を逃れるために、インターネット上で個人を特定されることを嫌います。

私もそうです。実名ではなくニックネームで活動しているのは、色々な理由がありますが、多くは、責任と面倒なトラブルを回避するためです。

匿名を用いるこどで、実際にその効果は発揮されています。

しかし、この効果を拡大すれば「悪いことをしても責任とトラブルを避けられる」ということでもあります。

インターネット上で匿名で攻撃する人は、「誰がやったかわからないのなら悪いことをしてもいい」と、言葉では考えていなくても、心の底では思っているのでしょう。

実際に、インターネット上だと攻撃的になるという研究もあります。

この匿名性が「自己責任論」を助長している可能性があることがおわかりいただけたと思います。

 

集団性

もう一つのインターネットの特徴として、多くの人に開かれているというものがあります。

そのため、インターネットを通じて色んな人が集まることができます。

しかし、それも悪く言えば、悪い人も集まってしまうということ。

集団で何かを非難し、攻撃することはインターネット上ではもはや当たり前になってしまっています。

多数決の論理のように、数は力だといわんばかりに、皆で集まり個人を攻撃することもあります。

集団での行動なので、誰かひとりが責任を負うことがありません。もし集団に対する非難を受けたとしても、その時は個人に戻って行動すればいいので、非難という攻撃力もさることながら、自身も非難を避ける防御力を多く備えているのです。

また、集団性を逆手にとって、結局は少数で騒いでいるだけにすぎないにも関わらず、声を大きくすることで数が多いと見せかけることもできます。

インターネットは色んな人に開かれている分、問題もいまだ多く残されているのです。

 

両方あるとどうなる?

インターネットの匿名性と集団性が組み合わさると、人を傷つける銃へと変貌します。

自分は匿名と集団による責任の回避を行いながら、安全な場所で一方的に相手を攻撃するということができてしまいます。

もちろん、匿名と集団が全面的に悪いわけではありませんし、全ての人が悪くなるわけでもありません。

しかし、一部の人にとってこの2つが組み合わさった状況は自分の悪事を正当化するのにうってつけなのです。

匿名性と集団性を備えたものはインターネット以外にもあります。

最近の例でいうと「ハロウィン」でしょう。

2018年の日本でのハロウィンは例年にも増して人が溢れ、羽目を外した暴徒と化した人も見られました。

あれはまさに仮装していて誰かわからないという匿名性と、大きな行事でたくさんの人が参加するという集団性を持っています。

そういう意味でも、匿名性と集団性はインターネットでの攻撃を語る上で大切になってきます。

さて、寄り道も済んだところで話を戻して、自己責任論についてお話していきます。

 

自己責任論を精査する

これまでのおさらい

「自己責任論」の定義は

2′.「自己責任」と職業全般(や理由)に対して他人が言う

3′.「自己責任」とあらゆる事柄に対して他人が言う

4′.「自己責任」と個人の人柄に対して他人が言う

5′.「自己責任」と個人の能力に対して他人が言う

でした。

これからはそれぞれの定義についてその理由を簡単に解説しておしまいにしたいと思います。

 

2′.「自己責任」と職業全般(や理由)に対して他人が言う

これはは言う側では一番多いと思います。

ジャーナリストの件で言えばジャーナリストは自ら危険な地に赴くことなので、できる限り自分の身を守るのは「自己責任だ」ということです。

この主張の焦点は、ジャーナリストという職業に焦点を当てている点にあります。

それも、日本で取材をするジャーナリストではなく、危険な地に行くジャーナリストです。

その主張をする人にとっては、「この職業はこういうものだ。だから自己責任だ」ということなんだと思います。

職業でなくとも、何かしらの理由があり、その理由が「~とはXXだから」という形式をとるのであればこの2’に当てはまります。

この形式の特徴は、他人に対して言っているのに加えて、「自分がもし同じ状況でも自己責任だと言える」人に多いことだと思います。

少なくとも自分に対しても自己責任を適用するなら、この形式は自己責任論の中でも最も筋が通っているといえます。

 

3′.「自己責任」とあらゆる事柄に対して他人が言う

この主張をする人は実際にはほとんどいなくて、見られるのはその主張をしていると「仮想敵」をつくって攻撃する「自己責任論非難者」です。

明らかに「自己責任論」の拡大解釈であり、死因に「この世に生まれてきたこと」と主張する、間違ってないけどひねくれている人は世の中にそれほど多くはありません。

あらゆる事柄に対して自己責任と言うのであれば、その主張をすることも当然自己責任なので、「非難されてもいい」と攻撃する「自己責任論非難者」もいます。

もちろん、そんな想像上の敵はどこにもいません。

もしいたとしても自己責任なので色んな議論に首をつっこむことは3’の主張をする人にとってデメリットにしかなりません。

 

4′.「自己責任」と個人の人柄に対して他人が言う

これは、ただの個人攻撃以外の何物でもありません。

匿名と集団性のバリアに守られたまま個人を攻撃することは許しがたいことです。

しかし、自己責任と言われた本人がそう言っているのであれば、話は少し変わってきます。

本人A「自己責任」

他人B「本人Aは自己責任だ」

他人B「本人Aは自己責任だ」

本人A「そうなの?」

では全く意味が変わってきます。

ジャーナリストの例では4’の主張をするのは前者の意味で使っており、4’の非難をする人は後者の意味で使っていました。

それでは話がかみ合わないのも当然です。

もちろん後者のケースで4’であれば理由なき個人攻撃ですからあまり養護はできません。

しかし、今回4’の主張をしたのは前者の意味で使っていたのですから、直接的な誹謗中傷でない限りは、問題がないと思いました。

 

5′.「自己責任」と個人の能力に対して他人が言う

これは4’と似ているようで微妙に違います。

個人に対しての自己責任ではありますが、能力という理由があり、その能力の基準を満たせば他の人でも当てはまるということです。

逆に理由を満たさなければ主張は通りません。

そのため、2’とも違います。

しかし、「自己責任論非難者」の中には、4’や2’と混同して話している場合が多い印象でした。

あくまで個人の能力に対して自己責任と言っているだけにも関わらず、「個人の全否定だ」とか「ジャーナリストを貶めるな」という非難は不当だと私は考えます。

もちろん、5’の主張をする人が説明不足なだけのこともありますが。

 

まとめ

ここまで、被害者を悪くする理由、インターネットの存在など寄り道をしつつ、自己責任論についてお話してきました。

ポイントをまとめると

  • 本人が言っているのか他人が言っているのかで違う
  • 自責と自己責任は違う
  • 自己責任でも色々なニュアンスがある
  • ただの個人攻撃は礼儀として慎もう

ということでした。

少しは状況がすっきりして、自己責任論がわかりやすくなったと信じたいです。

間違いだらけだとは思いますが、そこは優しい言葉でコメントしていただければ幸いです。あ、ただの個人攻撃は無視させていただきます!!

それではここまでお読みいただきありがとうございました!

 

日々の生活によりよいを

ノリ

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